最高裁判例の勉強部屋:毎日数個の最高裁判例を読む

上告理由を発見するためには常日頃から最高裁判例を読む習慣が有効:弁護士中山知行/富士市/TEL0545-50-9701

殺人の公訴事実について、自殺の主張は客観的証拠と矛盾するなどとして有罪の第1審判決の結論を是認した原判決に、審理不尽の違法、事実誤認の疑いがあるとされた事例

令和4年11月21日最高裁判所第一小法廷判決

判示事項    
殺人の公訴事実について、自殺の主張は客観的証拠と矛盾するなどとして有罪の第1審判決の結論を是認した原判決に、審理不尽の違法、事実誤認の疑いがあるとされた事例

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=91536

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/536/091536_hanrei.pdf

 ・・・所論に鑑み、職権をもって調査すると、原判決は、刑訴法411条1号、3号により破棄を免れない。その理由は、以下のとおりである。

1 事案の概要
本件公訴事実は、被告人が、平成28年8月9日、被告人方において、妻であるA(当時38歳)に対し、殺意をもって、その頸部を圧迫し、よって、その頃、同所において、Aを頸部圧迫による窒息により死亡させた、というものである。

2 第1審における争点及び当事者の主張
被告人が、平成28年8月9日午前1時過ぎに帰宅した後、119番通報した同日午前2時45分頃までの間に、被告人方で、Aが頸部圧迫により窒息死したことや、その当時被告人方にいたのは被告人とAのほかには幼い子供らだけであったことには争いがなく、Aの死因が、被告人が頸部を圧迫したことによる他殺か、A自身が首をつったことによる自殺かという、事件性が争点とされた。なお、Aは左前額部に出血を伴う挫裂創(「前額部挫裂創」)を負っており、これが死因ではないことにも争いはなかった。

検察官は、被告人が、帰宅後、Aとトラブルとなって突発的に殺意を抱き、被告人方1階の寝室に敷かれたマットレス(「本件マットレス」)上で、背後から腕でAの頸部を圧迫して窒息させ、Aが窒息死するまでの間に、意識を失ったAを階段から落下させるなどの偽装工作を行い、その際に前額部挫裂創を負わせた旨主張した。

弁護人は、主として被告人の供述に基づき、被告人は、帰宅後、包丁を持ったAともみ合いになり、本件マットレス上でAを押さえ付けたが、Aが再び起き上がって包丁を持ったことから、2階の子供部屋に入りドアを閉じて待った、その間、ドアの外からは「ドドド」などという物音がし、しばらくして子供部屋から出ると、Aが階段の手すりに被告人のジャケットを巻き付け、それに首を通して自殺を図っていた旨主張した(「本件自殺の主張」)。

3 第1審判決
第1審判決は、本件公訴事実どおりの犯罪事実を認定して、被告人を懲役11年に処した。その事実認定の理由の要旨は、次のとおりである。
窒息を伴う態様で頸部圧迫されてから二、三分が経過した窒息の第2期(呼吸困難及び痙攣期)の後半になると、尿失禁が生じたり、血液が唾液に混じったりすることがある。本件マットレスに、尿斑や唾液混じりの血痕という窒息第2期後半の痕跡がそろっており、それ以外に被告人方に窒息第2期後半の痕跡が見当たらないことや、被告人の右腕に7か所の表皮剥脱があり、Aの指の爪の付着物から被告人とAの混合DNA型と矛盾しないDNA型が検出されたことなどからすれば、被告人が本件マットレス上でAの頸部を圧迫して窒息死させたことが推認される(「本件推認」)。尿斑や唾液混じりの血痕が窒息第2期後半以外の事情から生ずる可能性があり得ないとはいえないが、本件自殺の主張を前提とし、Aが前額部挫裂創を負った後に自殺を図ったとすると、被告人方の血痕の付着箇所が限られた範囲(寝室、洗面所、階段、階段下の合計15か所)にとどまっているのは説明が困難であること(「現場血痕の不整合」)などからすれば、自殺の可能性は抽象的なものにとどまり、本件推認を妨げない。したがって、被告人がAの頸部を圧迫して窒息死させたことは常識に照らして間違いない。

4 原判決
第1審判決に対し、被告人が控訴し、訴訟手続の法令違反、事実誤認を主張したところ、原判決は、第1審の訴訟手続に法令違反は認められず、第1審判決の事実認定の理由には一部是認できないところがあるものの、本件公訴事実どおりの犯罪事実を認定した第1審判決の判断は結論において相当であるとして、控訴を棄却した。その事実誤認の主張に対する判断の要旨は、次のとおりである。
まず、尿斑や唾液混じりの血痕は他の要因でも生じ得るなどという所論を踏まえても、Aが窒息第2期後半の状態を経た場所は、被告人方で唯一上記の痕跡がそろっている寝室であると推認することは合理的な判断であり、それを前提に他の間接事実も総合考慮して、本件推認をした第1審判決の判断が不合理とはいえない。しかし、現場血痕の不整合については、原審における事実の取調べの結果、更に13か所の血痕が存在する可能性が明らかになったことから、第1審判決の前提は客観的事実に反し誤りである上、本件自殺の主張に基づいて第1審判決が想定するAの行動を前提としても、Aの前額部挫裂創からどの程度の血液が床に落ちるのかは証拠上判然とせず、想定される出血量や出血態様等に対する十分な検討をしないまま、現場血痕の不整合を指摘したことは、客観的事実及び経験則等に反して不合理である。本件自殺の主張を排斥する主要な根拠に関する第1審判決の説示は是認できない。
一方で、本件自殺の主張を前提とすると、Aは前額部挫裂創を負った後も、意識のある状態で自殺に向けた行動を取ったことになるところ、その場合、痛みなどから傷に手を当て、血液を拭うなどするはずであり、そうしない限り顔の前面に血液が流れるはずである。しかし、原審における事実の取調べの結果も踏まえると、Aの両手には血液の付着がなく、その痕跡もないことや、血液を拭うなどした際に使用した可能性のある物が見当たらないこと、前額部挫裂創の周囲を除くAの顔の前面には、血液の付着や、血液が流れたり血液を拭いたりした痕跡(「顔前面の血痕」)がないことが認められ、本件自殺の主張は客観的証拠と矛盾する。また、Aの両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も見当たらないことからは、Aは前額部挫裂創を負った時点で意識を消失していてそのまま死亡したと推認でき、このことは本件推認を強く支える。さらに、階段上でAが首をつって窒息死した場合、前額部挫裂創から直接又は顔を伝って血液が滴下するはずであるが、これと整合する痕跡はAの着衣や階段上に残されておらず、Aの顔前面の血痕もない。このような事実は、前額部挫裂創の状況から想定される出血量や出血態様等が明らかでないことを考慮しても、本件自殺の主張を否定する一方で、本件推認を支える根拠になる。本件公訴事実どおりの犯罪事実を認定した第1審判決の判断は結論において相当であって事実誤認はない。

5 当裁判所の判断
しかしながら、Aの顔前面の血痕がないとして、本件自殺の主張は客観的証拠と矛盾するとした原判決の判断は是認できず、その判断に基づき被告人を有罪とした点には事実誤認の疑いがある。また、その原因は、原審で十分な審理が尽くされなかったことにあるものといわざるを得ない。その理由は、次のとおりである。原審では、弁護人の控訴趣意書及び検察官の答弁書において、Aの顔前面の血痕の有無に関する主張はなく、Aの顔前面の血痕の有無は特に争点とされていなかった。検察官が提出した写真出力捜査報告書(原審検5号証)及び聴取結果報告書(原審検6号証)は、いずれもAの顔面における血液の付着状況を立証趣旨とするものではなく、当事者双方からAの顔前面の血痕の有無に関する立証はなかった。
検察官は、事実の取調べ結果に基づく弁論において、原審検5号証添付の写真3(Aの遺体の検視時に撮影された前額部挫裂創の写真)に基づき、Aの顔の前面に血液が流れた形跡が認められないと主張したが、原審裁判所は、この点について、当事者に釈明を求めるなどすることもなかった。そして、原判決は、原審検5号証添付の写真3及びその拡大写真並びに原審検6号証添付の診療記録中の写真(救急搬送時に撮影されたAの顔の写真)を根拠に、Aの顔前面の血痕がないと認定した。
しかし、原審検5号証添付の写真3及びその拡大写真には前額部挫裂創周辺の狭い範囲しか写っておらず、原審検6号証添付の前記写真には顔面全体が写っているものの、同写真は電子カルテから普通紙に印刷されたもので色調が不鮮明である。
これらの写真からAの顔前面の血痕の有無を判断することは困難というほかなく、他にAの顔前面の血痕の有無を判断する根拠となり得る証拠は取り調べられていない。
仮にAの顔前面の血痕があるとすれば、原判決の論理によっても、Aの両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も見当たらなくとも必ずしも不合理でないことになるから、原判決が本件自殺の主張を排斥した主要な根拠が失われることとなる。
また、原判決は、Aの両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も見当たらないことから、Aが前額部挫裂創を負った時点で意識を消失しており、意識を回復することなく死亡したことが推認できるとし、そのことが本件推認を強く支えるともしているが、Aの顔前面の血痕があるとすれば、本件推認の強い支えも失われることとなる。
さらに、そもそも、原判決も認めるとおり、Aの前額部挫裂創からの出血量や出血態様等は明らかでない上、本件自殺の主張によってもAの自殺前の行動には多様な想定が可能であり、Aがどの時点で前額部挫裂創を負ったのかも不明であるから、本件自殺の主張を前提とした場合に前額部挫裂創からの出血がAの顔面にどのような痕跡を残すのかについても、証拠上明らかでないというべきである。

6 結論
以上によれば、原審において、Aの顔前面の血痕の有無や、それと本件自殺の主張との関係について、審理が尽くされたとはいい難く、Aの両手に血液の付着やその痕跡がなく、血液を拭うなどした物も見当たらないことと併せて、Aの顔前面の血痕がないことを挙げ、本件自殺の主張は客観的証拠と矛盾するとした原判決の判断は、原審の証拠関係の下では、論理則、経験則等に照らして不合理であるといわざるを得ない。そうすると、原判決には、審理を十分に尽くさなかった結果、重大な事実誤認をしたと疑うに足りる顕著な事由があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであって、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
なお、原判決と同様に、Aの顔前面の血痕がないことを、本件推認の根拠とするとともに、本件自殺の主張を排斥する根拠とするのであれば、Aの顔前面の血痕の有無はもとより、本件自殺の主張を前提とした場合に前額部挫裂創からの出血がAの顔面にどのような痕跡を残すのかについて、当事者双方の主張立証を尽くさせることが必要である。これらの事実を証拠上認定できないときには、それでも本件推認が成立するのか、本件自殺の主張を排斥し得るのかについて検討する必要がある。さらに、仮に本件推認が成立しない場合でも、なお訴因の事実が推認できるか否かについて検討する必要が残り、それに応じて自殺の可能性の有無、程度についても検討する必要があるというべきである。
よって、刑訴法411条1号、3号により原判決を破棄し、同法413条本文に従い、更に必要な審理を尽くさせるため、本件を原審である東京高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。