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使用者が労働者の同意の下に労働者の退職金債権等に対してした相殺が有効とされた事例  使用者が労働者の同意の下に労働者の退職金債権等に対してして相殺が否認権行使の対象とならないとされた事例

平成2年11月26日最高裁判所第二小法廷判決

裁判要旨    

一 使用者が労働者の同意を得て労働者の退職金債権に対してする相殺は、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、労働基準法(昭和六二年法律第九九号による改正前のもの)二四条一項本文に違反しない。
二 甲会社の従業員乙が、銀行等から住宅資金の貸付けを受けるに当たり、退職時には乙の退職金等により融資残債務を一括返済し、甲会社に対しその返済手続を委任する等の約定をし、甲会社が、乙の同意の下に、右委任に基づく返済費用前払請求権をもつて乙の有する退職金債権等と相殺した場合において、右返済に関する手続を乙が自発的に依頼しており、右貸付けが低利かつ相当長期の挽割弁済の約定の下にされたものであつて、その利子の一部を甲会社が負担する措置が執られるなど判示の事情があるときは、右相殺は、乙の自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在したものとして、有効と解すべきである。
三 甲会社の従業員乙が、銀行等から住宅資金の貸付けを受けるに当たり、退職時には乙の退職金等により融資残債務を一括返済し、甲会社に対しその返済手続を委任する等の約定をした場合において、甲会社が、乙の破産宣告前、右約定の趣旨を確認する旨の乙の同意の下に、右委任に基づく返済費用前払請求権をもつてした乙の有する退職金債権等との相殺は、否認権行使の対象とならない。

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52759

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/759/052759_hanrei.pdf

労働基準法(昭和六二年法律第九九号による改正前のもの。以下同じ。)二四条一項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁昭和四八年一月一九日第二小法廷判決)。もっとも、右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行われなければならないことはいうまでもないところである。

本件についてこれをみるに、原審の確定するところによれば、

(1) 被上告人B1(「被上告人B1」)は、被上告人B2株式会社(「被上告会社」)に在職中、昭和五六年七月二〇日、被上告会社の住宅財形融資規程に則り、元利均等分割償還、退職した場合には残金一括償還の約定で、被上告会社から八七万円を、D銀行から二六三万円を、それぞれ借り入れ(以下、被上告会社からの右借入金を「被上告会社借入金」といい、D銀行からの右借入金を「E借入 金」という。)、また、昭和五八年四月二六日、同人の所属するF労働組合(「組合」)の労働金庫運営規程G支部内規(「内規」)に則り、右と同様の約定で、H労働金庫から二〇〇万円を借り入れた(以下「労金借入金」という。)、

(2) 右各借入金は、いずれも、借入れの際には抵当権の設定はされず、低利かつ相当長期の分割弁済の約定のもとに被上告人B1が住宅資金として借り入れたものであり、被上告会社借入金及びE借入金については、利子の一部を被上告会社が負担する等の措置が執られた、

(3) 右各借入金のうち、被上告会社借入金の返済については、右住宅財形融資規程及び被上告会社と被上告人B1との間の住宅資金貸付に関する契約証書の定めに基づき、被上告会社が被上告人B1の毎月の給与及び年二回の賞与(「給与等」)から所定の元利均等分割返済額を控除するという方法で処理することとされ、被上告人B1が退職するときには、退職金その他より融資残金の全額を直ちに返済する旨が約された、

(4) E借入金の返済については、右住宅財形融資規程及び被上告会社とD銀行の住宅財形融資制度に関する協定書、被上告人B1とD銀行間のIローン契約書の定めに基づき、被上告会社が被上告人B1の委任により同人の給与等から所定の元利均等分割返済額を控除したうえ、右控除額をD銀行の被上告会社名義の預金口座に振り込んで支払うという方法で処理することとされ、右協定書には、被上告会社の従業員が退職等により従業員の資格を喪失した場合には、被上告会社は残債務を一括して右と同様の方法で入金して繰り上げ償還する旨が約されており、被上告人B1は、右約定を承認し、右償還を被上告会社に委任した、

(5) また、労金借入金の返済については、被上告会社と組合との間で締結された労働協約、前記内規及び被上告人B1とH労働金庫との間の金円借用証書の定めに基づき、被上告会社が被上告人B1の委任により同人の毎月の給与から所定の元利均等分割返済額を控除したうえ、右控除額を組合に交付し、これを組合がH労働金庫に支払うという方法で処理することとされ、右内規には、労働金庫より融資を受けた者が退職等で資格を喪失したときは退職金等を優先的弁済に充てる旨の定めが、右金円借用証書には、被上告人B1がH労働金庫の会員の構成員の資格を喪失したときには期限の利益を失い、直ちに債務を返済する旨の定めがあり、被上告人B1はこれらを承認し、同人が退職するときには、被上告会社に対し退職金等により労金借入金の残債務全額に相当する金員を直ちに組合に交付して支払うことを、組合に対し被上告会社から受領した右金員をH労働金庫に支払うことを、各委任した、

(6) 被上告人B1は、昭和四九年頃から交際費等の出費に充てるために借財を重ね、昭和五八年九月頃には、総額七〇〇〇万円余の負債の返済に追われ、破産申立てをするほかない状態になったことから、被上告会社を退職することを決意し、昭和五八年九月七日、被上告会社に対し、退職したい旨を申し出るとともに、前記のとおり退職によって一括償還義務が生ずる前記各借入金の残債務を返済しなければ、永年勤めた被上告会社や労金借入金について連帯保証人となっている同僚に迷惑をかけることになるので、前記各約定に従い右各借入金の残債務だけでも自己の退職金、給与等をもって返済しておきたいと考え、被上告会社に対し、右各借入金の残債務を退職金等で返済する手続を執ってくれるように依頼し、被上告会社はこれを了承した、

(7) 被上告会社においては、このような場合、従来からの労使間の協議により、被上告会社が退職する従業員から退職金、給与等より右各借入金の一括返済額を控除して被上告会社及び融資機関に対する返済に充てることの同意を個別的に得るとともに、その返済手続を被上告会社に一任させる取扱いが慣行的に実施されてきていたことから、被上告会社は、本件も右取扱いに従って処理することとし、昭和五八年九月一四日、同月一五日を退職希望日とする被上告人B1からの退職願を受理するとともに、同人が右各借入金についての前記各約定の趣旨を確認し、これに従い自己の退職金等をもって被上告会社が右各借入金を一括返済するための手続を行うことに同意する趣旨で作成した「今般私儀退職に伴い会社債務(住宅融資ローン残高)及び労働金庫債務の弁済の為、退職金、給与等の自己債権一切を会社に一任することに異存ありません」との文面の委任状(「本件委任状」)の提出を受けた、

(8) そこで、被上告会社は、被上告人B1の退職日を昭和五八年九月一五日としたうえ、同月二〇日(八月分給与支給日)退職金三九二万一二二二円及び八月分給与二二万八三一一円を計上し、同日これらから被上告会社借入金の一括返済額六九万六七九一円を控除するとともに、E借入金の一括返済額二二九万五一三四円を控除したうえ、右控除額をD銀行の被上告会社名義の口座に振り込んで支払い、同月二二日には、労金借入金の一括返済額のうち、一一五万七六〇八円を控除したうえ、これに被上告人B1の共済会脱会餞別金四万円及び九月分給与の一部九万九五四六円を加えて、合計一二九万七一五四円を組合に交付し、組合がこれをH労働金庫に支払う等の、各清算処理を行った、

(9) 被上告人B1は、同年一〇月六日大阪地方裁判所に破産の申立てをし、同裁判所は、同月一九日同人に対し破産宣告をし、上告人を破産管財人に選任した、

(10) 同年一一月下旬頃、被上告会社の担当者が被上告人B1に対し、右清算処理の明細書を交付したうえ、事務処理上の必要から退職金計算書、給与等の領収書に署名押印を求めたが、その際にも、被上告人B1はこれに異議なく応じた、というのであり、原審は、右事実関係に基づき、右各清算処理につき、被上告会社が、前記各約定に基づき被上告人B1の退職により同人に対して有するに至った被上告会社借入金の一括返済請求権及びE借入金と労金借入金について被上告会社がその残債務の一括返済の委任を受けたことに基づく返済費用前払請求権(民法六四九条)と、被上告人B1の有する退職金及び給与等の支払請求権とを、被上告人B1の同意のもとに対当額で相殺した(「本件相殺」)ものであると判断しているのであって、右認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として首肯することができ、その過程に所論の 違法はない。

 右事実関係によれば、被上告人B1は、被上告会社の担当者に対し右各借入金の残債務を退職金等で返済する手続を執ってくれるように自発的に依頼しており、本件委任状の作成、提出の過程においても強要にわたるような事情は全くうかがえず、右各清算処理手続が終了した後においても被上告会社の担当者の求めに異議なく応じ、退職金計算書、給与等の領収書に署名押印をしているのであり、また、本件各借入金は、いずれも、借入れの際には抵当権の設定はされず、低利かつ相当長期の分割弁済の約定のもとに被上告人B1が住宅資金として借り入れたものであり、特に、被上告会社借入金及びE借入金については、従業員の福利厚生の観点から利子の一部を被上告会社が負担する等の措置が執られるなど、被上告人B1の利益になっており、同人においても、右各借入金の性質及び退職するときには退職金等によりその残債務を一括返済する旨の前記各約定を十分認識していたことがうかがえるのであって、右の諸点に照らすと、本件相殺における被上告人B1の同意は、同人の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたものというべきである。
 してみると、右事実関係の下において、本件相殺が労働基準法二四条一項本文に違反するものではないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はないものというべきである。

 同第三点について
 被上告人B1が被上告会社に対して提出した本件委任状は、これにより前記の一括返済請求権及び返済費用前払請求権を発生させる意思表示をその内容とするものではなく、被上告人B1が右各借入金についての前記各約定の趣旨を確認し、これに従い自己の退職金等をもって被上告会社が右各借入金を一括返済するための手続を行うことに同意する趣旨で作成したものであり、被上告会社が被上告人B1に対して有するに至った右一括返済請求権及び返済費用前払請求権は、各借入れの段階において締結された前記各約定に基づき被上告人B1の退職の事実により発生し、右各債権と被上告人B1の有する退職金及び給与等の支払請求権とが破産宣告前において相殺適状になったものであるとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。

右事実及び前記の事実関係によれば、本件相殺は、被上告会社の右一括返済請求権及び返済費用前払請求権をもってする相殺権の行使に被上告人B1がその自由な意思により同意したことに基づくものとみるべきところ、債権者の相殺権の行使は、債務者の破産宣告の前後を通じ、否認権行使の対象とはならないものと解すべきであるから(最高裁昭和四一年四月八日第二小法廷判決)、本件相殺における被上告会社の相殺権の行使自体は否認権行使の対象となるものではないというべきである。そして、右にみた被上告人B1が被上告会社に対して提出した本件委任状の趣旨、内容に照らすと、本件委任状による同意は、破産法上これを否認権行使の対象とする余地のないものというべきである。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。所論中本件相殺が許されるとした原審の認定判断に破産法一〇四条の解釈適用を誤った違法がある旨の部分は、原審の認定に沿わない事実に基づき原判決の違法をいうものにすぎず、また、所論引用の判例は、事案を異にし本件に適切でない。論旨は、いずれも採用することができない。