自動車を運転する予定の者に対し,ひそかに睡眠導入剤を摂取させ運転を仕向けて交通事故を引き起こさせ,事故の相手方に傷害を負わせたという殺人未遂被告事件について,事故の相手方に対する殺意を認めた第1審判決に事実誤認があるとした原判決に,刑訴法382条の解釈適用を誤った違法があるとされた事例
令和3年1月29日最高裁判所第二小法廷判決
裁判要旨
被告人が,自動車を運転する予定の者に対し,ひそかに睡眠導入剤を摂取させて運転するよう仕向けたことにより,走行中にその運転者が仮睡状態等に陥って自車を対向車線に進出させて対向車に衝突させる交通事故を引き起こし,対向車の運転者に傷害を負わせたという殺人未遂被告事件について,対向車の運転者に対する殺意を認めた第1審判決に事実誤認があるとした原判決は,死亡の危険性及びその認識に関する第1審判決の評価が不合理であるとする説得的な論拠を示していないなど,第1審判決が論理則,経験則等に照らして不合理であることを十分に示したものとはいえず(判文参照),刑訴法382条の解釈適用を誤った違法があり,同法411条1号により破棄を免れない。
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検察官の所論に鑑み,職権をもって調査すると,原判決は,刑訴法411条1号により破棄を免れない。その理由は,以下のとおりである。
第1 第1審判決
被告人は,傷害罪のほか,Aに対する殺人罪,B,C,D及びEに対する各殺人未遂罪で起訴された。被告人は,上記5名に対する殺意を争ったが,第1審判決は,要旨,以下のとおり判示して,各殺意を認定し,上記各罪により被告人を懲役24年に処した。
1 本件の事実関係
被告人は,千葉県印西市内の老人ホーム(「本件老人ホーム」)において准看護師として勤務しており,同僚のAが自動車で通勤していることを知っていた。
被告人は,平成29年2月5日午後0時頃から同日午後1時頃までの間に,本件老人ホーム事務室において,Aに対し,ブロチゾラムを含有する睡眠導入剤数錠をひそかに混入したコーヒーを飲ませた。Aは,同日午後3時頃になると,意識障害等を伴う急性薬物中毒の症状が生じ,普段とは違う口調で脈絡のない発言をするようになり,机に突っ伏して寝た。この様子を見ていた被告人は,Aに帰宅を促した。
Aは,普通乗用自動車(「A車」)の運転を開始したが,仮睡状態等に陥り,同日午後3時40分頃,約100m走行した地点において,A車を脱輪させて鉄パイプの柵に衝突させる物損事故を起こした(「本件物損事故」)。被告人は,その現場に駆けつけ,上記鉄パイプの先端がA車に突き刺さっているのを目撃した。Aは,本件物損事故の状況を説明できず,フェンスに背中をもたれて立ったまま寝ている様子であり,被告人がAの両頬を両手で叩いて声をかけても,黙ってぼう然と立ったままであった。Aは,ふらつきながら同事務室に戻り,机に突っ伏して眠り込んだ。その後,被告人がA車の引上げ作業についてAの了承を得ようとした際も,眠り込んでいたため意思確認ができなかった。
被告人は,同日午後5時30分頃,A車が走行可能である旨を告げてAを起こし,運転して帰宅するよう本件老人ホームから送り出した。
Aは,A車の運転を開始したが,その後間もなく,急性薬物中毒に基づく仮睡状態等に陥り,約1.4㎞走行した地点において,A車を対向車線に進出させ,対向進行してきたB運転の普通貨物自動車にA車を衝突させた(「第1事故」)。第1事故により,Aは胸部下行大動脈完全離断等の傷害を負い,同日午後7時55分頃,搬送先の病院において死亡し,Bは全治約10日間を要する左胸部打撲の傷害を負った(以下,このA及びBに係る事件を「第1事件」という。)。
第1事故後,被告人は,自己の行為によりAが交通事故を起こして死亡した事実を認識した。
被告人は,同僚のCの夫であるDがCを自動車で本件老人ホームに送迎していることを知っていた。
被告人は,同年5月15日午後1時頃から同日午後1時30分頃までの間に,本件老人ホーム事務室において,C及びDに対し,ゾルピデムを含有する睡眠導入剤数錠をひそかに混入したお茶を飲ませた。C及びDは,意識障害等を伴う急性薬物中毒の症状が生じ,同日午後2時頃以降,Dが椅子に座ったまま眠り込み,その後C及びDとも体調が悪化して同事務室等で休んでいたが,被告人は,この様子を見ていた。
被告人は,同日午後5時30分頃,同事務室で寝ていたC及びDに対し,帰宅時間である旨を告げて起こし,Dに自動車を運転してCと共に帰宅するよう仕向けた。
Dは,助手席にCを乗せて普通乗用自動車(「D車」)の運転を開始したが,Cと共に急性薬物中毒に基づく仮睡状態等に陥り,同日午後6時頃,約4.7㎞走行した地点において,D車を対向車線に進出させ,対向進行してきたE運転の普通貨物自動車にD車を衝突させた。この事故により,Cは全治約1か月間を要する両側肋骨骨折の傷害を,Dは全治約10日間を要する全身打撲傷等の傷害を,Eは加療約3週間を要する頸椎捻挫等の傷害をそれぞれ負った(以下,このC,D及びEに係る事件を「第2事件」という。)。
2 殺意の有無
被告人は,自動車を運転して帰宅する予定の者に対し,一般的な服用量以上の睡眠導入剤をひそかに摂取させ,その効果が生じている状況で,その者を起こし,運転するよう仕向けた。被告人の行為は,運転者が自身では認識していない睡眠導入剤の影響により,眠気を催して意識が混濁したり仮睡状態に陥ったりし,周囲の状況を把握し的確に運転操作をすることが困難となり,運転者,同乗者のみならず,巻き込まれた第三者を死亡させる事故を含め,あらゆる態様の事故を引き起こす危険性が高い。
第1事件において,被告人は,本件物損事故の発生,その後のAの様子を目の当たりにしたことにより,自ら摂取させた睡眠導入剤の影響がAに生じていて,意識障害等が解消していない状態であることを十分認識していた。被告人は,そのようなAが自動車を運転すれば,上記のような死亡事故を含めあらゆる事故を引き起こす危険性が現実的にも高まったことを認識しながら,あえてAに運転して帰宅するよう仕向けた。
第2事件において,被告人は,第1事件により,睡眠導入剤の影響による意識障害等が生じている状況で自動車を運転すれば,その運転者又は第三者を死亡させる事故を含むあらゆる態様の事故を引き起こす危険性があることを現実のものとして認識していた。被告人は,そのような認識の下で,C及びDに睡眠導入剤を摂取させ,その影響による意識障害等が生じている状態にあることを十分認識しながら,Dに自動車を運転してCと共に帰宅するよう仕向けた。
被告人には,自動車を運転して帰宅するA及びDが交通事故を引き起こし,A,C及びD(以下,併せて「Aら」という。)並びに事故に巻き込まれた第三者が死亡するかもしれないがそれでもやむを得ないという未必の殺意があった。
第2 原判決
被告人は,第1審判決に対して控訴し,原判決は,事故の相手方であるB及びEに対する殺意を認めた第1審判決には事実誤認があるとして第1審判決を破棄し,本件を千葉地方裁判所に差し戻した。その理由の要旨は以下のとおりである。
1 被告人の行為は,運転者,同乗者及び交通事故の相手方を死亡させる現実的危険性が相当程度あり,実行行為性は認められるとしても,人が死亡する危険性が高いとまではいえない。事故の相手方は,Aらと異なり,自らの命を守ろうとする行動をとることが一応可能であるから,死亡の可能性はAらと比較しても低かった。
2 人が死亡する危険性が高いとはいえない行為について殺意を認めるためには,行為者が,実行行為による人の死亡の危険性を単に認識しただけでは足りず,実行行為の結果としてその人が死亡することを期待するなど,意思的要素を含む諸事情に基づいて,その人が死亡してもやむを得ないと認容したことを要する。
第1審判決は,Aらと事故の相手方を区別することなく,本来人の死亡の結果が生ずる危険性が高い行為について用いられるべき,専ら行為者の認識を基準とする判断枠組みを用いるとともに,これと整合性を保つため,認識の対象について,「第三者を死亡させる事故を含めあらゆる態様の事故を引き起こす危険性が高い行為」として,上記の危険性の程度を引き下げている。しかし,このような殺意の認定手法を採ると,行為者自身が摂取したアルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させた事例を,対向車の運転者等不特定の者に対する殺意が認められるものとして取り込む結果となり,殺意の意義を希釈することになりかねず,妥当でない。
3 第1事件において,Aは,第1事故に先立ち,本件物損事故を起こしただけであって,対向車と衝突したわけではなかった。第2事件においても,第1事故でAは死亡したが,事故の相手方であるBは全治約10日間を要する左胸部打撲にとどまっていた上,被告人が同傷害について認識していたのか不明である。被告人が事故の相手方の死亡を期待する理由は全くない。事故の相手方が死亡することについては,もともとその可能性が低く,被告人がそれを想起し難いことに加えて,前記の意思的要素を備えていたとも認められない。
第3 当裁判所の判断
刑訴法382条の事実誤認とは,第1審判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理であることをいうものと解するのが相当であり,控訴審が第1審判決に事実誤認があるというためには,第1審判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である(最高裁平成24年2月13日第一小法廷判決)が,原判決は,以下のとおり,B及びEに対する殺意を認めた第1審判決の事実認定について,論理則,経験則等に照らして不合理な点があることを十分に示したものとは評価することができない。
1 第1審判決は,殺意の有無を検討するに当たり,巻き込まれた第三者を死亡させる事故を含むあらゆる態様の事故を引き起こす危険性の認識について説示している。このような説示では,被告人が死亡事故発生の危険性をどのように認識していたのかが明確にならず,いささか措辞不適切であるといわざるを得ない。しかし,判文全体を通覧すると,被告人の行為は,交通事故を引き起こす危険性が高い行為であり,事故の態様次第でAらのみならず事故の相手方を死亡させることも具体的に想定できる程度の危険性があると評価したものと解される。第1審判決は,その上で,被告人は,このような自己の行為の危険性を認識しながらAやDに運転を仕向けており,事故の相手方であるB及びEが死亡することもやむを得ないものとして認識・認容していたと判断したものと解するのが相当である。そうすると,第1審判決が認識の対象となる危険性の程度を引き下げているという原判決の指摘は,必ずしも第1審判決を正解したものとはいえない。
2 原判決は,①被告人が運転を仕向けた後にも,AやDが再び寝込んでしまうほか,他の者が運転しないように止めるなどして,運転をしなかったり,運転開始後も気分が悪くなって運転を止めたりする可能性があった上,運転を継続して実際に交通事故を起こしたとしても,Aら又は事故の相手方は,傷害を負わなかったり,傷害を負ったとしても死亡するに至らなかったりする可能性が相当程度あったから,被告人の行為は,人が死亡する危険性が高いとまではいえない,②事故の相手方は,居眠り運転をしている車両が自車の車線上にはみ出してきても,これを避けて自らの命を守ろうとする行動をとることが一応可能であるから,死亡の可能性はAらと比較しても低かった,と指摘する。
しかし,上記①については,Aらは睡眠導入剤を摂取させられたことを認識しておらず,もうろう状態にあったことなどに照らすと,自らの判断で運転を避止又は中止できた可能性は低かったといえる。当時,被告人を除く本件老人ホーム職員の中でAらが睡眠導入剤を摂取させられていることを知っていた者はいなかったこと,被告人が他の職員の目が届きにくい状況でAらに帰宅を促していることなどに鑑みると,他の者が運転を制止する可能性も低かったといえる。顕著な急性薬物中毒の症状を呈していたAらが仮睡状態等に陥り,制御不能となったA車やD車がAらの自宅までの道路を走行すれば,死亡事故を引き起こすことは十分考えられるのであるから,原判決の上記①の指摘は,第1審判決の危険性の評価が不合理であるとするだけの説得的な論拠を示しているとはいい難い。
上記②については,A車やD車が制御不能の状態で走行した場合に対向車の運転者が採り得る回避手段が観念的には想定できるとしても,実際にそのような回避がされるとは限らず,事故の相手方が死亡することも十分あり得る。原判決の上記②の指摘も,第1審判決の危険性の評価が不合理であるとするだけの説得的な論拠を示しているとはいい難い。
3 原判決は,被告人の行為により事故の相手方が死亡する危険性は低かったとの評価を前提に,被告人には事故の相手方が死亡することを想起し難いというが,前提を異にする指摘である上,被告人は,ひそかに摂取させた睡眠導入剤の影響によりAらが仮睡状態等に陥っているのを現に目撃し,また,第1事件の前には上記影響によりAが本件物損事故を引き起こしたこと及び第2事件の前には第1事件でAが死亡したことをそれぞれ認識していたのであり,各事件現場付近の道路交通の状況(証拠によれば,一定の交通量があったと認められる。)も知っていたのであるから,自己の行為の危険性を十分認識していたということができ,交通事故の態様次第では事故の相手方が死亡することも想定しており,B及びEはその想定の範囲内に含まれていたというべきである。したがって,B及びEに対する未必の殺意を認めた第1審判決の判断に不合理な点があるとはいえない。
なお,原判決のいう実行行為の結果として被害者が死亡することを期待していたという事情は,本件において殺意を認定するために必要なものではない。原判決は,行為者自身が摂取した薬物等の影響下で自動車を走行させた事例を挙げて,実行行為の結果として被害者が死亡することを期待するなどの意思的要素を含む諸事情を要求しなければ,殺意の意義を希釈することになりかねないと批判するが,そのような事例と,本件事案とでは,事故により行為者自身の生命が危険にさらされるおそれの有無など種々の相違があり,同列に論ずることはできないから,上記の批判をもって,第1審判決の不合理性を指摘できているとはいえない。
4 以上のとおり,被告人が,A及びDに対し,ひそかに睡眠導入剤を摂取させて自動車を運転するよう仕向けたことにより,同人らが走行中に仮睡状態等に陥って自車を対向車線に進出させて対向車に衝突させ,対向車の運転者であるB及びEに傷害を負わせたという殺人未遂被告事件について,B及びEに対する殺意を認めた第1審判決に事実誤認があるとした原判決は,第1審判決について,論理則,経験則等に照らして不合理な点があることを十分に示したものとは評価することができない。
そうすると,第1審判決に事実誤認があるとした原判断には刑訴法382条の解釈適用を誤った違法があり,この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであって,原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。検察官の上告趣意第5は,第1審判決に事実誤認があるとした原判断を前提とするものであるから,この点について判断するまでもなく,原判決は破棄を免れない。
よって,刑訴法411条1号により原判決を破棄することとし,以上の検討によれば,Aに対する殺人罪並びにB,C,D及びEに対する各殺人未遂罪の成立を認めた第1審判決の判断は是認することができ,また,訴訟記録に基づいて検討すると,本件各犯行時における被告人の完全責任能力を肯定し,懲役24年に処した判断を含め,第1審判決を維持するのが相当であり,被告人の控訴は理由がないから,同法413条ただし書,414条,396条によりこれを棄却し,原審における未決勾留日数の算入につき刑法21条,当審及び原審における訴訟費用につき刑訴法181条1項ただし書を適用することとし,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。