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医薬品の添付文書(能書)に記載された使用上の注意事項と医師の注意義務

平成8年1月23日最高裁判所第三小法廷判決

裁判要旨    
医師が医薬品を使用するに当たって医薬品の添付文書(能書)に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される。
(補足意見がある。)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/866/055866_hanrei.pdf

一 本件は、被上告人B1が経営する病院で虫垂切除手術を受け、その手術中に起こった心停止等により脳に重大な損傷を被った上告人A1が、その両親である上告人A2、同A3と共に、被上告人B1とその医師である被上告人B2、同B3に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為を理由として、損害賠償を求めるものである。原審の確定した事実関係は、次のとおりである。

 1 診療契約の締結

 (一) 上告人A1(昭和四二年四月一〇日生)は、昭和四九年九月二五日午前零時三〇分ころ、腹痛と発熱を訴えて、救急車で被上告人B1の経営するD病院に搬送され、同病院の当直医によって経過観察の上加療を要すると診断されて入院したが、同日午後三時四〇分ころまでに、同病院の内科医であるE及び外科医である被上告人B2の診察を受け、その結果、化膿性ないし壊阻性の虫垂炎に罹患しており、虫垂切除手術が必要であると診断された。

 (二) そこで、上告人A1の両親である上告人A2、同A3は、同日、上告人A1の法定代理人として、被上告人B1との間で、虫垂切除手術(本件手術)及びこれに付帯する医療処置を目的とする診療契約を締結し、被上告人B2によって本件手術が実施されることになった。 

 2 本件手術の経過

 (一) 被上告人B2は、介助者として看護婦三名(F婦長、G看護婦、H看護婦)、連絡係として看護補助者一名(I看護婦)を配置し、同日午後四時二五分、上告人A1を手術室に入れ、再度診察した後、偶発症に備えて血管確保の意味で点滴を開始し、午後四時三二分ころ、上告人A1の第三腰椎と第四腰椎の椎間にルンバール針を用いて、〇・三パーセントのペルカミンS(以下「本件麻酔剤」という)一・二ミリリットルを注入し、腰椎麻酔(以下「腰麻」ともいう)を実施した。右麻酔実施前の午後四時二八分の上告人A1の血圧は一一二ないし六八水銀柱ミリメートル(以下、単位は省略)、脈拍は七八(毎分、以下同じ)であり、麻酔実施後の午後四時三五分の血圧は一二四ないし七〇、脈拍は八四で、いずれも異常はなかった。

 (二) 被上告人B2は、麻酔実施後上告人A1の腹部を消毒し、麻酔高を確認した上、午後四時四〇分、執刀を開始した。この時点の血圧は一二二ないし七二、脈拍は七八であった。なお、被上告人B2は、G看護婦に対して手術中常時上告人A1の脈拍をとり五分ごとに血圧を測定して報告するよう、また、F婦長に対して上告人A1の顔面等の監視に当たるよう、それぞれ指示した。

 (三) 被上告人B2は、マクバーネーの切開方法により開腹した後、腹膜を切開し、大網を頭側に押しやり、虫垂を切除しようとしたが、虫垂の先端は後腹膜に癒着して遊離不能であったため、逆行性の切除方法を採ることにした。被上告人B2がペアン鉗子で上告人A1の虫垂根部を挟み、腹膜のあたりまで牽引した午後四時四十四、五分ころ、急に上告人A1が「気持ちが悪い」と悪心を訴え、それとほぼ同時にG看護婦が脈が遅く弱くなったと報告した。そこで、被上告人B2は、直ちに虫垂根部をペアン鉗子で挟んだまま手を離し、「どうしたぼく、ぼくどうした」と上告人A1に声をかけたが、返答はなく、顔面は蒼白で唇にはチアノーゼ様のものが認められ、呼吸はやや浅い状態で意識はなかった。この時点で、G看護婦から、血圧は触診で最高五〇であるとの報告があった。午後四時四五分ころ、手術は中止された。

 (四) 被上告人B2は、H看護婦に傷口をガーゼで保護するよう指示し、自ら手術台を操作して上告人A1をトレンデレンブルグ体位に変えながら、看護補助者のI看護婦を大声で呼び、外科部長の被上告人B3及び外科医のJに患者の容態が急変したのですぐに来て欲しいと電話で連絡するよう指示し、トレンデレンブルグ体位にした後、左手で上告人A1の気道を確保しながら酸素マスクが顔面に密着するよう押し付け、酸素が毎分四リットルの割合で流れるように調節した上、右手でバグを握縮加圧して、上告人A1の自発呼吸に合わせて気管内に酸素を圧入したが、次第にバグの加圧に抵抗が生じ酸素の入りが悪くなった。被上告人B2は、この操作を行いながらG看護婦に指示して、昇圧剤メキサン一アンプルを点滴器具の三方活栓から急速に静注させ、F婦長に指示してカルジオスコープの電極をセットさせ、心電図のモニターによる監視を開始させた。モニターの波形はかなり不規則で心室性の期外収縮が見られ、低電位であったが、心室細動はなかった。上告人A1は、漸次自発呼吸がなくなっていった。

 (五) 午後四時四六分ころ、被上告人B3は、I看護婦からの電話連絡で直ちに手術室に駆け付けた。この時点で、上告人A1の自発呼吸はほとんどなく、モニターの波形は不規則、低電位であり、心室細動に移行する前段階の状態を呈していた。
被上告人B3は、被上告人B2から状況の報告を受けた後、G看護婦に副腎皮質ホルモン剤ソルコーテフ一〇〇ミリグラムの静脈急注とノルアドレナリン一アンプルの点滴液内の混注を指示し、自らは経胸壁心臓マッサージ(心マッサージ)を実施した。被上告人B3が到着してから約一分後にJ医師も到着し、緊急処置に加わった。J医師は、被上告人B2からバグの加圧に抵抗があることを聞き、気管内チューブの気管内挿管を実施し、被上告人B2に代わって呼吸管理をし、被上告人B2は、被上告人B3と交代して心マッサージを行った。しかし、上告人A1は、午後四時四十七、八分ころ、心停止の状態に陥った。被上告人B3は、再び被上告人B2と代わって心マッサージを行うとともに、直接心臓腔内にノルアドレナリン一アンプルを注射し、また、J医師が酸素の送入に苦労しているのを見て聴診器で上告人A1の肺を聴診したところ、喘息様の音が聴かれたので気管支痙攣によるものと判断し、気管支拡張のため、G看護婦にボスミン二分の一アンプルの右上膊部筋注を指示した。

 (六) 午後四時五五分少し前、ようやく上告人A1に心拍動が戻り、間もなく自発呼吸も徐々に回復し、午後四時五五分の血圧は九〇ないし五八、脈拍は一二〇となり、以後は血圧、脈拍ともに安定したが、上告人A1の意識は回復しなかった。
午後五時二〇分、被上告人B2は、本件手術を再開し、虫垂を逆行性に切除した。
虫垂は先端が根部の倍くらいに腫れており、色は赤黒く、先端付近に膿苔が付着して化膿性虫垂炎の症状を呈していた。手術は午後五時四二分に終了した。

 3 上告人A1の現在
  上告人A1は、その後K病院、L病院、M病院等に入院して治療を受け、昭和五〇年六月二二日からは自宅療養を続けているが、病態の改善は見られず、現在は、脳機能低下症のため、頭部を支えられた状態のもとで首を回すことができるだけで、発作的にうなり声、泣き声を発し、発語は一切なく、小便は失禁状態、大便は浣腸のみで排便し、固形物の摂取は不可能で、半流動物を長時間かけて口の中に運んでやらねばならない状態であり、将来にわたり右状態は継続する見込みである。

 4 事故の原因等

 (一) 本件麻酔剤を用いた腰椎麻酔に伴う医療事故の結果、脳機能低下症に陥る原因としては、(1) 本件麻酔剤によるアナフィラキシーショック、(2) 高位腰麻ショック、(3) 腰麻ショック、(4) 迷走神経反射によるショックがある。

 (二) アナフィラキシーショックとは、一般に抗原によって感作された個体に同一抗原を再度投与することによって見られる即時型反応のうち、急激な全身症状を伴うものをいい、皮膚の発赤、じんま疹様発疹、掻痒感、顔面と眼瞼の浮腫、声門浮腫、気管支痙攣が生じ、血圧低下、徐脈、呼吸困難となり、治療に反応しないときは心停止に至ることがあるが、本件麻酔剤の主成分である塩酸ジブカインによるアナフィラキシーショックは、一般に極めて稀である。

 (三) 通常、高位腰麻というのは、脊髄くも膜下腔内に注入された麻酔剤が脳脊髄液中で拡散され、麻痺高が乳線以上に及ぶ場合をいい、これがために呼吸筋(肋間筋、横隔膜)が麻痺して、呼吸抑制、呼吸停止を来すことを高位腰麻ショックというが、これに陥ると一時間程度は自発呼吸が戻らない。

 (四) 腰麻ショックとは、腰麻剤の影響により血圧が段階的に降下し、脳への血流が減少して脳中枢が低酸素症に陥り、呼吸抑制、呼吸停止となり、ついには心停止にまで至るショック状態をいうが、この血圧降下の機序は、(1) 腰麻剤により交感神経がブロックされて末梢血管が拡張し、その抵抗が下がって血圧が下がる、
(2) 末梢血管が拡張すると、その血管内に血液が貯留されて心臓への静脈還流が減少し、心拍出量が減少して血圧が下がる、(3) 交感神経がブロックされて筋肉が弛緩し、血液を絞り出す作用が低下して、静脈還流が減少し、血圧が下がる、(4) 麻酔の効果がある程度以上の高さになると、心臓にいく交感神経がブロックされ、心拍数が減少して血圧が下がる、というものである。

 (五) 迷走神経反射によるショックとは、腰麻剤のため自律神経の一方である交感神経がより強度に抑制され、他の一方の副交感神経である迷走神経が相対的に優位になった状態で、腹膜刺激、腸管牽引などの手術操作による機械的刺激が加わった場合に、迷走神経反射が起こり、急激な徐脈、血圧降下、呼吸抑制を来すことをいうが、副交感神経が優位になると気管支痙攣の発生しやすい状態になり、これによる低酸素症は迷走神経反射をさらに増強させ、ついには心停止、脳死に至ることもあり得る。

 5 本件麻酔剤の添付文書(能書)

 (一) 本件麻酔剤の添付文書(能書)には、「副作用とその対策」の項に血圧対策として、麻酔剤注入前に一回、注入後は一〇ないし一五分まで二分間隔に血圧を測定すべきことが記載されている。

 (二) 外科医であるNは、腰推麻酔につき研究するうち、腰麻剤注入後一五分ないし二〇分の間は血圧降下を伴ういわゆる腰麻ショックが発生する危険度が高いので、その間は頻回に血圧の測定をすべきであることを昭和三〇年代の早い時期から提唱し、昭和三五年には、二分ごとに血圧を測定すべきであるとの論文を発表し、昭和四〇年には同趣旨をラジオ放送を通じて講演したこともあり、昭和四七年には、同人の要望により、本件麻酔剤の能書に前記のような注意事項が記載されるに至り、次第に医師の賛同を得てきた。

 (三) しかし、N医師の提唱にもかかわらず、昭和四九年ころは、血圧については少なくとも五分間隔で測るというのが一般開業医の常識であり、被上告人B2も、本件手術においては、介助者であるG看護婦に対し、五分ごとの血圧の測定を指示したのみであった。

 二 原審は、上告人A1が脳機能低下症に陥った原因として、塩酸ジブカインによるアナフィラキシーショックは極めて稀である上、上告人A1にはその初発症状である全身発赤、掻痒感、顔面、眼瞼の浮腫が認められないので、本件ではアナフィラキシーショックは否定され、上告人A1の自発呼吸は停止後間もなく回復していることなどからすると高位腰麻ショックも否定されるとした上、上告人A1は、本件手術当日の午後四時三二分ころ、本件麻酔剤の注入を受けた後、次第に呼吸抑制の外、上気道炎による発熱により換気量減少を来し、午後四時四〇分直後から血圧低下の傾向もあったため、低酸素症の状態になっていたところ、午後四時四十四、五分ころ、虫垂根部を牽引するという機械的刺激を機縁として迷走神経反射が起こって、徐脈、急激な血圧降下に陥り、直ちに酸素吸入の措置が採られたものの、低酸素症により増強された迷走神経反射のため、続いて起こった気管支痙攣により換気不全となり、また、一時期心停止の状態にもなり、心臓マッサージは継続されていたが、自発呼吸が回復した午後四時五五分ころまでの間、脳への酸素供給が途絶したか、又は著しく減少したため、重篤な後遺症を残した脳機能低下症になったものと認定した。
  そして、原審は、昭和四七年には、本件麻酔剤の能書に麻酔剤注入前に一回、注入後は一〇ないし一五分まで二分間隔に血圧を測定すべきことが記載されるようになったが、本件手術のあった昭和四九年ころは、血圧については少なくとも五分間隔で測るというのが一般開業医の常識であったから、当時の医療水準を基準にする限り、麻酔剤注入後一〇ないし一五分まで二分ごとに血圧の測定をせず、五分ごとの測定を指示したにすぎないことをもって、被上告人B2に過失があったということはできないが、医師は、使用する薬剤について、その能書に記載された注意事項を遵守することは当然の義務であるから、この観点からすると、本件麻酔剤注入後一〇ないし一五分まで二分ごとに血圧の測定をしなかった被上告人B2には、注意義務違反があった、しかし、仮に二分ごとに血圧を測定していたとしても、上告人A1が急に「気持ちが悪い」というまで、G看護婦もF婦長も上告人A1の異常に気付かなかったのであるから、果たしてより早期に異常を発見し得たかどうか明確でない上、上告人A1の脳機能低下症は、迷走神経反射を機縁に発生した気管支痙攣のため、被上告人B2らの蘇生処置にもかかわらず換気不全に陥り、脳への酸素供給が不足したことが原因となったというべきであるから、被上告人B2の前記注意義務違反と上告人A1の脳機能低下症発症との間には因果関係がない、と判断した。

 三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのであるが(最高裁昭和三六年二月一六日第一小法廷判決)、具体的な個々の案件において、債務不履行又は不法行為をもって問われる医師の注意義務の基準となるべきものは、一般的には診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である(最高裁昭和五七年三月三〇日第三小法廷判決、最高裁昭和六三年一月一九日第三小法廷判決)。

そして、この臨床医学の実践における医療水準は、全国一律に絶対的な基準として考えるべきものではなく、診療に当たった当該医師の専門分野、所属する診療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮して決せられるべきものであるが(最高裁平成七年六月九日第二小法廷判決)、医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであるから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない。   

ところで、本件麻酔剤の能書には、「副作用とその対策」の項に血圧対策として、麻酔剤注入前に一回、注入後は一〇ないし一五分まで二分間隔に血圧を測定すべきであると記載されているところ、原判決は、能書の右記載にもかかわらず、昭和四九年ころは、血圧については少なくとも五分間隔で測るというのが一般開業医の常識であったとして、当時の医療水準を基準にする限り、被上告人B2に過失があったということはできない、という。

しかしながら、医薬品の添付文書(能書)の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者又は輸入販売業者が、投与を受ける患者の安全を確保するために、これを使用する医師等に対して必要な情報を提供する目的で記載するものであるから、医師が医薬品を使用するに当たって右文章に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定されるものというべきである。

そして、前示の事実に照らせば、本件麻酔剤を投与された患者は、ときにその副作用により急激な血圧低下を来し、心停止にまで至る腰麻ショックを起こすことがあり、このようなショックを防ぐために、麻酔剤注入後の頻回の血圧測定が必要となり、その趣旨で本件麻酔剤の能書には、昭和四七年から前記の記載がされていたということができ(鑑定人Oによると、本件麻酔剤を投与し、体位変換後の午後四時三五分の血圧が一二四ないし七〇、開腹時の同四〇分の血圧が一二二ないし七二であったものが、同四五分に最高血圧が五〇にまで低下することはあり得ることであり、ことに腰麻ショックというのはそのようにして起こることが多く、このような急激な血圧低下は、通常頻繁に、すなわち一ないし二分間隔で血圧を測定することにより発見し得るもので、このようなショックの発現は、「どの教科書にも頻回に血圧を測定し、心電図を観察し、脈拍数の変化に注意して発見すべしと書かれている」 というのである)、他面、二分間隔での血圧測定の実施は、何ら高度の知識や技術が要求されるものではなく、血圧測定を行い得る通常の看護婦を配置してさえおけば足りるものであって、本件でもこれを行うことに格別の支障があったわけではないのであるから、被上告人B2が能書に記載された注意事項に従わなかったことにつき合理的な理由があったとはいえない。

すなわち、昭和四九年当時であっても、本件麻酔剤を使用する医師は、一般にその能書に記載された二分間隔での血圧測定を実施する注意義務があったというべきであり、仮に当時の一般開業医がこれに記載された注意事項を守らず、血圧の測定は五分間隔で行うのを常識とし、そのように実践していたとしても、それは平均的医師が現に行っていた当時の医療慣行であるというにすぎず、これに従った医療行為を行ったというだけでは、医療機関に要求される医療水準に基づいた注意義務を尽くしたものということはできない。

そして、原審が前記確定したところによると、上告人A1には本件手術当日の午後四時三二分ころ本件麻酔剤が注入されたが、被上告人B2は、介助者であるG看護婦に手術中五分ごとに血圧を測定するよう指示したのみであったため、執刀を開始した午後四時四〇分の時点で血圧が測定された後は、午後四時四十四、五分ころ上告人A1の異常に気付くまで血圧は測定されなかったところ、上告人A1は、虫垂根部の牽引を機縁とする迷走神経反射が起こる前に、午後四時四〇分直後から血圧低下の傾向にあったため、低酸素症の状態になっていたというのであるから(鑑定人Oも、上告人A1の口唇に認められたチアノーゼは、迷走神経反射に先行する潜在性の腰麻ショックによる低酸素症によるものと考えられ、迷走神経反射そのものによるものではないとしている)、午後四時四二分ないし四三分ころに、すなわち、二分間隔で上告人A1の血圧を測定していたとしても、上告人A1の血圧低下及びそれによる低酸素症の症状を発見し得なかった、とは到底いい得ない筋合いである。

本件手術を介助していたG看護婦及びF婦長が上告人A1の異常に気付かなかったからといって、血圧の測定をしても血圧低下等を発見し得なかったであろうといえないことは勿論である(二分間隔で血圧を測定しなかったという医師の注意義務の懈怠により生じた午後四時四〇分から四五分にかけての血圧値の推移の不明確を当の医師にではなく患者の不利益に帰することは条理にも反する)。

また、上告人A1の血圧低下を発見していれば、被上告人B2としてもこれに対する措置を採らないまま手術を続行し、虫垂根部を牽引するという挙に出ることはなかったはずであり、そうであれば虫垂根部の牽引を機縁とする迷走神経反射とこれに続く徐脈、急激な血圧降下、気管支痙攣等の発生を防ぎ得たはずである。

したがって、被上告人B2には、本件麻酔剤を使用するに当たり、能書に記載された注意事項に従わず、二分ごとの血圧測定を行わなかった過失があるというべきであり、この過失と上告人A1の脳機能低下症発症との間の因果関係は、これを肯定せざるを得ないのである。

これと異なる原審の判断には、過失及び因果関係についての解釈適用を誤り、ひいては審理不尽、理由不備の違法があるというべきであり、この違法は原判決中被上告人B2、同B1に関する部分の結論に影響を及ぼすことが明らかである。右の趣旨をいう論旨は理由があり、その余の点を判断するまでもなく原判決は右部分につき破棄を免れない。

以上の次第であるから、原判決中、被上告人B2、同B1に関する部分については、これを破棄し、進んで上告人らに生じた損害等も含め更に審理を尽くさせるため原審に差し戻すこととし、被上告人B3に関する部分については、上告を棄却することとする。