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国が連合国最高司令官総司令部の発した覚書に従い南方地域から帰還した日本人捕虜に対して抑留期間中の労働賃金を決済する措置を講じてきたことを理由としてシベリア抑留者が憲法一四条に基づき国に対して抑留期間中の労働賃金の支払を請求することの可否

平成9年3月13日最高裁判所第一小法廷判決

裁判要旨    
1 シベリア抑留者は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言六項後段に定める請求権放棄によりソヴィエト社会主義共和国連邦に対して損害の賠償を求めることが実際上不可能となったことによる損害につき、憲法二九条三項に基づき国に対して補償を請求することはできない。
2 シベリア抑留者は、長期にわたる抑留と強制労働により受けた損害につき、憲法一一条、一三条、一四条、一七条、一八条、二九条三項及び四〇条に基づき、国に対して補償を請求することはできない。
3 国が、連合国最高司令官総司令部の発した覚書に従い、戦時捕虜としての所得を示す証明書を示したオーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域などの南方地域から帰還した日本人捕虜に対して抑留期間中の労働賃金を決済する措置を講じてきたとしても、シベリア抑留者は、憲法一四条一項に基づき、国に対して抑留期間中の労働賃金の支払を請求することはできない。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/788/052788_hanrei.pdf

 一 上告代理人の上告理由第一について
 捕虜の待遇に関する一九四九年八月一二日のジュネーブ条約(以下「四九年ジュネーブ条約」という。)が我が国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間において効力を生ずる以前に捕虜たる身分を終了した者の法律関係の処理について、同条約を遡及して適用することはできないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

 二 同第二について
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、四九年ジュネーブ条約の批准に当たり、同条約八五条の適用を留保したものであるところ、原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人Aは、昭和二四年二月、ロシア共和国刑法五八条所定の罪により強制労働二五年の刑の宣告を受け、以後、昭和三一年に本邦に帰還するまでの間、囚人として囚人ラーゲリに収容され労働に従事してきたというのである。右事実関係の下においては、その後、同上告人が右有罪判決について再審請求をした結果、同判決が破棄されて無罪となり、名誉回復の措置が執られたとしても、そのことによって、同上告人の右受刑中の身柄拘束が、さかのぼって、同条約の適用を受けるべき捕虜の抑留になると解する根拠はなく、これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

 三 同第三について
 原審の適法に確定した事実関係の下においては、上告人らが捕虜としてシベリアに抑留されていた当時、抑留国から捕虜に支払うべき貸方残高について捕虜の所属国がこれを決済する責任を負うこと、捕虜の労働による負傷又はその他の身体障害に対する補償請求等は捕虜の所属国に対してすべきこと等を内容とする所論の自国民捕虜補償の原則が、世界の主要国における一般慣行となり、これが法的確信によって支えられていたとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

 五 同第五について
 我が国がポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印したことにより、上告人らを含む多くの軍人・軍属が、ソヴィエト社会主義共和国連邦の捕虜となり、シベリア地域の収容所等に送られ、その後長期間にわたり、満足な食料も与えられず、劣悪な環境の中で抑留された上、過酷な強制労働を課され、その結果、多くの人命が失われ、あるいは身体に重い障害を残すなど、筆舌に尽くし難い辛苦を味わわされ、肉体的、精神的、経済的に多大の損害を被ったことは、原審の適法に確定するところであり、上告人らを含むこれらのシベリア抑留者に対する右のような取扱いは、捕虜の取扱いに関し当時確立していた国際法規に反する不当なものといわざるを得ない。そして、昭和三一年一二月一二日発効の日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(以下「日ソ共同宣言」という。)六項後段によるいわゆる請求権放棄に伴い、我が国が、国際法上、ソヴィエト社会主義共和国連邦との間で、シベリア抑留者の右損害の回復を図る権利を失い、これにより、上告人らがソヴィエト社会主義共和国連邦に対し右損害の賠償を求めることは、仮に所論の請求権が存するとしても、実際上不可能となったことも否定することができない。 

 所論は、日ソ共同宣言六項後段に定める請求権放棄により上告人らが受けた損害につき、被上告人は、憲法二九条三項に基づき、これを補償すべき義務を負うという。しかしながら、上告人らを含む多くの軍人・軍属が、長期にわたりシベリア地域において抑留され、強制労働を課されるに至ったのは、敗戦に伴って生じた事態であり、これによる損害は正に戦争により生じたものというべきである。そして、日ソ共同宣言は、連合国との間の平和条約とは異なり我が国が主権を回復した後に合意されたものであるとはいえ、終戦処理の一環として、いまだ平和条約を締結するに至っていなかったソヴィエト社会主義共和国連邦との間で戦争状態を解消して正常な外交関係を回復するために合意されたものであって、請求権放棄を含む合意内容について、連合国との間の平和条約と異なる合意をすることは事実上不可能であり、我が国が同宣言六項後段において請求権放棄を合意したことは、誠にやむを得ないところであったというべきである。右の抑留が敗戦に伴って生じたものであること、日ソ共同宣言が合意されるに至った経緯、同宣言の規定の内容等を考え合わせれば、同宣言六項後段に定める請求権放棄により上告人らが受けた損害も、戦争損害の一つであり、これに対する補償は、憲法二九条三項の予想しないところといわざるを得ない。したがって、上告人らが憲法二九条三項に基づき被上告人に対し右請求権放棄による損害の補償を求めることはできないものというほかはない。このことは、最高裁昭和四三年一一月二七日大法廷判決の趣旨に徴して明らかである(最高裁昭和四四年七月四日第二小法廷判決)。
 また、所論は、上告人らが、過酷な条件下で長期間にわたり抑留され、強制労働を課されたことによって生じた損害は、被上告人による戦争の開始、遂行及び終戦処理に起因する特別な損害であり、右損害については、憲法一一条、一三条、一四条、一七条、一八条、二九条三項及び四〇条に基づき補償がされるべきであるともいう。シベリア抑留者の辛苦は前記のとおりであるが、第二次世界大戦によりほとんどすべての国民が様々な被害を受けたこと、その態様は多種、多様であって、その程度において極めて深刻なものが少なくないこともまた公知のところである。戦争中から戦後にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては、国民のすべてが、多かれ少なかれ、その生命、身体、財産の犠牲を堪え忍ぶことを余儀なくされていたのであって、これらの犠牲は、いずれも戦争犠牲ないし戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり、これらの戦争損害に対する補償は憲法の右各条項の予想しないところというべきである。その補償の要否及び在り方は、事柄の性質上、財政、経済、社会政策等の国政全般にわたった総合的政策判断を待って初めて決し得るものであって、憲法の右各条項に基づいて一義的に決することは不可能であるというほかはなく、これについては、国家財政、社会経済、戦争によって国民が被った被害の内容、程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断にゆだねられたものと解するのが相当である。以上のこともまた、前記大法廷判決の趣旨に徴して明らかである(最高裁昭和六二年六月二六日第二小法廷判決)。シベリア抑留者が長期間にわたる抑留と強制労働によって受けた損害が深刻かつ甚大なものであったことを考慮しても、他の戦争損害と区別して、所論主張の憲法の右各条項に基づき、その補償を認めることはできないものといわざるを得ない。
 以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は採用することができない。 

 七 同第八について
 原審の適法に確定したところによれば、

(1) 我が国は、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して以来、連合国との間の平和条約が発効するまでの数年間、連合国による占領管理下に置かれ、連合国の占領政策に忠実に従わざるを得ず、我が国の統治機構は一応存在していたものの、占領目的の実現という名の下に政治、経済、文化等のあらゆる面において、連合国による種々の厳しい規制を受け、法的、政治的にみれば、いまだおよそ独立国家としての地位と権限を有するには至っていなかった、

(2)終戦後、世界各地から日本へ引き揚げてきた一般人、軍人・軍属のほか、上告人らのように数年間捕虜として連合国の占領地域等に抑留されていた者が、順次帰国するに及んで、右引揚者らが持ち帰る通貨や金、銀等の貴金属類あるいは有価証券類等が無制限に我が国に流入することになれば、終戦直後における通貨、経済体制の混乱状態に一層の拍車が掛かり、我が国の経済復興に重大な支障を与えるおそれがあったため、連合国最高司令官総司令部は、とりあえず通貨、貴金属類、有価証券類等の輸出入等を原則として全面的に禁止するとともに、貿易等の対外的経済取引をも停止するという緊急非常措置を講ずる一方、我が国の経済体制が次第に安定するに従って、徐々に右の各種の制限も緩和するという政策を採用した、

(3) 連合国最高司令官総司令部は、右政策を実施するために、引揚者の持帰金、捕虜として抑留されていた者の貸方残高の決済に関して覚書を発し、引揚者の持帰金については、一般人、軍人・軍属及びその階級等に応じて一律に一定の制限を設けるとともに、捕虜として抑留されていた者については、「戦時捕虜としての所得を示す証明書」を所持する者に限り、その貸方残高を日本政府が決済することを許可する旨を指令し、占領下にあって連合国の占領政策を誠実に遵守すべき立場にあった日本政府は、右覚書を実施するために大蔵省告示を発し、右告示の定めるところに従って、抑留国が発行した個人計算カード等の「戦時捕虜としての所得を示す証明書」を示した者については、抑留国に代わって右証明書に記載された抑留期間中の労働賃金の支払を行ってきた、

(4) 連合国最高司令官総司令部は、日本政府の求めに応じて、ソヴィエト社会主義共和国連邦当局に対し、シベリア抑留者の抑留中の所得を証明する資料の交付等を要請したが、同国当局はこれに応じなかった、というのである。

所論は、右のように、被上告人は、大蔵省告示の定めるところに従って、オーストラリア、ニュージーランド、東南アジア地域など(以下「南方地域」という。)から帰還した日本人捕虜に対し、その抑留期間中の労働賃金を支払ってきたのであるから、シベリア抑留者に対しても、憲法一四条一項に基づき、その抑留期間中の労働賃金を支払うべき法的義務を負担すると解すべきであるというのである。

しかしながら、右事実関係によれば、連合国との間の平和条約が発効するまでの数年間については、被上告人において、所得を証明するような資料を所持していない者に対して抑留中の労働賃金を決済することは、連合国最高司令官総司令部の覚書によって許されていなかったものといわざるを得ず、連合国による占領管理下に置かれ、連合国の占領政策に忠実に従うべき義務を負っていた日本政府が、右決済の措置を講じなかったことをもって、上告人らに対して差別的取扱いをしたものということはできず、その限りにおいては、所論はその前提を欠くものというべきである。そして、連合国との間の平和条約が発効し、我が国が主権を回復した後においては、捕虜の抑留期間中の労働賃金を被上告人において支払うべきかどうかの問題は、戦争損害に対する補償の一環をなすものとして、立法府の総合的政策判断にゆだねられるに至ったものと解すべきことは、前記説示のとおりである。したがって、被上告人が、主権回復後において、シベリア抑留者に対し、その抑留期間中の労働賃金を支払うためには、右のような総合的政策判断の上に立った立法措置を講ずることを必要とするのであって、そのような立法措置が講じられていない以上、上告人らが、憲法一四条一項に基づき、その抑留期間中の労働賃金の支払を請求することはできないものといわざるを得ない。

また、所論は、原審の口頭弁論終結後に上告人らの一部の者に対しロシア共和国政府から労働証明書の交付がされた事実を指摘して弁論の再開を申し立てたのに、弁論を再開しなかった原審の措置には審理不尽の違法があるという。しかし、仮に、右事実が立証されたとしても、上告人らが、被上告人に対し、捕虜としての抑留期間中の労働賃金の支払を請求するためには、被上告人にその支払を義務付ける立法を必要とするのであるから、右のような立法措置が執られていないという立法政策の当否が問題となり得るにすぎず、憲法一四条一項に基づきその請求をすることはできないという右判断が左右されるものではない。原審が弁論再開の措置を執らなかったことに、所論の違法を認めることはできない

(なお、上告人らは、南方地域から帰還した捕虜が持ち帰った個人計算カードに記載された労働賃金については、我が国が主権を回復した後においても、その支払を依頼する旨の大蔵省理財局長の日銀国庫局長又は引揚援護庁長官あての通達が発せられ、昭和二九年三月ころまで大蔵大臣の許可によりその支払がされてきた事実が原判決言渡後に判明した旨の指摘をし、関係資料を提出しているが、これらによっても、右の支払は、関係行政庁の判断に基づく一時的な行政措置としてされたものであることがうかがわれ、何らの立法措置も講じられることなくされた右支払をもって被上告人の支払先に対する法的義務の履行としてされたものとみることはできない。右事実が被上告人の上告人らに対する労働賃金の支払義務を根拠付けるものでないことは、既に説示したところから明らかである。)。

南方地域から帰還した日本人捕虜は、被上告人からその抑留期間中の労働賃金の支払を受けることができたのに、シベリア抑留者は、過酷な条件の下で長期間にわたり抑留され、強制労働を課されたにもかかわらず、その抑留期間中の労働賃金が支払われないままであることは、前記説示のとおりであり、上告人らがそのことにつき不平等な取扱いを受けていると感ずることは理由のないことではないし、また、国際法上、捕虜の抑留期間中の労働賃金の支払を確保すべきことが求められていることは、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約以来の捕虜の待遇に関する国際法の変遷や四九年ジュネーブ条約に関する討議の経過につき原審の確定するところから明らかである上、上告人らが捕虜たる身分を失った後であるとはいえ、抑留国から捕虜に支払うべき貸方残高について捕虜の所属国がこれを決済する責任を負う旨を定めた四九年ジュネーブ条約を被上告人が批准したことをも考慮すると、シベリア抑留者の抑留期間中の労働賃金の支払を可能とする立法措置が講じられていないことについて不満を抱く上告人らの心情も理解し得ないものではない。しかし、シベリア抑留者に対する補償の問題は、その抑留期間中の労働賃金の支払の要否を含め、戦後補償立法の策定に当たり度々国会における議論の対象となり、その結果、恩給法、戦傷病者戦没者遺族等援護法において捕虜としての抑留に係る給付につき一定の立法措置が講じられ、また、平和祈念事業特別基金等に関する法律においてシベリア抑留者に対する慰謝の措置が講じられるなどしてきたことは、当裁判所に顕著である。

戦後補償立法の策定に当たり、シベリア抑留者が過酷な条件の下で長期間にわたり抑留され、強制労働を課されたにもかかわらず、その抑留期間中の労働賃金の支払がされていないという事情については、立法府において一応の考慮をしてきたものということができ、立法府が、シベリア抑留者に対し、その抑留期間中の労働賃金を支払うための立法措置を講じていないことが、その裁量の範囲を逸脱したものとまではいうことができない。
 以上によれば、これと同旨に帰する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。