別訴において一部請求をしている債権の残部を自働債権とする相殺の抗弁の許否
平成10年6月30日最高裁判所第三小法廷判決
裁判要旨
一個の債権の一部についてのみ判決を求める旨を明示して訴えを提起している場合において、当該債権の残部を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは、債権の分割行使をすることが訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情の存しない限り、許される。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/548/052548_hanrei.pdf
一 記録によれば、本件訴訟の経過は次のとおりであると認められる。
1 上告人は、平成二年六月五日、被上告人の申請した違法な仮処分により本件土地及び建物の持分各二分の一を通常の取引価格より低い価格で売却することを余儀なくされ、その差額二億五二六〇万円相当の損害を被ったと主張して、被上告人に対し、不法行為を理由として、内金四〇〇〇万円の支払を求める別件訴訟(最高裁平成六年(オ)第六九七号損害賠償請求事件)を提起した。
2 一方、被上告人は、同年八月二七日、上告人が支払うべき相続税、固定資産税、水道料金等を立て替えて支払ったとして、上告人に対し、一二九六万円余の不当利得返還を求める本件訴訟を提起した。
3 本件訴訟の第一審において、上告人は、相続税立替分についての不当利得返還義務の存在を争うとともに(上告理由第一点参照)、予備的に、前記違法仮処分による損害賠償請求権のうち四〇〇〇万円を超える部分を自働債権とする相殺を主張した。
4 また、上告人は、本件訴訟の第二審において、右3の相殺の主張に加えて、預金及び現金の支払請求権を自働債権とする相殺を主張し(上告理由第二点の一参照)、また、前記違法仮処分に対する異議申立手続の弁護士報酬として支払った二〇〇〇万円及びこれに対する遅延損害金の合計二四七八万円余の損害賠償請求権を自働債権とする相殺を主張した。
二 原審は、右事実経過の下において、係属中の別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは許されないとした最高裁平成三年一二月一七日第三小法廷判決の趣旨に照らし、(1)前記違法仮処分により売買代金が低落したことによる損害賠償請求権のうち四〇〇〇万円を超える部分を自働債権とする相殺の主張、及び、(2)弁護士報酬相当額の損害賠償請求権を自働債権とする相殺の主張は、いずれも許されないものと判断した。
三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 民訴法一四二条(旧民訴法二三一条)が係属中の事件について重複して訴えを提起することを禁じているのは、審理の重複による無駄を避けるとともに、同一の請求について異なる判決がされ、既判力の矛盾抵触が生ずることを防止する点にある。
そうすると、自働債権の成立又は不成立の判断が相殺をもって対抗した額について既判力を有する相殺の抗弁についても、その趣旨を及ぼすべきことは当然であって、既に係属中の別訴において訴訟物となっている債権を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することが許されないことは、原審の判示するとおりである(前記平成三年一二月一七日第三小法廷判決参照)。
2 しかしながら、他面、一個の債権の一部であっても、そのことを明示して訴えが提起された場合には、訴訟物となるのは右債権のうち当該一部のみに限られ、その確定判決の既判力も右一部のみについて生じ、残部の債権に及ばないことは、当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和三七年八月一〇日第二小法廷判決)。この理は相殺の抗弁についても同様に当てはまるところであって、一個の債権の一部をもってする相
殺の主張も、それ自体は当然に許容されるところである。
3 もっとも、一個の債権が訴訟上分割して行使された場合には、実質的な争点が共通であるため、ある程度審理の重複が生ずることは避け難く、応訴を強いられる被告や裁判所に少なからぬ負担をかける上、債権の一部と残部とで異なる判決がされ、事実上の判断の抵触が生ずる可能性もないではない。
そうすると、右2のように一個の債権の一部について訴えの提起ないし相殺の主張を許容した場合に、その残部について、訴えを提起し、あるいは、これをもって他の債権との相殺を主張することができるかについては、別途に検討を要するところであり、残部請求等が当然に許容されることになるものとはいえない。
しかし、こと相殺の抗弁に関しては、訴えの提起と異なり、相手方の提訴を契機として防御の手段として提出されるものであり、相手方の訴求する債権と簡易迅速かつ確実な決済を図るという機能を有するものであるから、一個の債権の残部をもって他の債権との相殺を主張することは、債権の発生事由、一部請求がされるに至った経緯、その後の審理経過等にかんがみ、債権の分割行使による相殺の主張が訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情の存する場合を除いて、正当な防御権の行使として許容されるものと解すべきである。
したがって、一個の債権の一部についてのみ判決を求める旨を明示して訴えが提起された場合において、当該債権の残部を自働債権として他の訴訟において相殺の抗弁を主張することは、債権の分割行使をすることが訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情の存しない限り、許されるものと解するのが相当である。
4 そこで、本件について右特段の事情が存するか否かを見ると、前記のとおり、上告人は、係属中の別件訴訟において一部請求をしている債権の残部を自働債権として、本件訴訟において相殺の抗弁を主張するものである。
しかるところ、論旨の指摘する前記二(2)の相殺の主張の自働債権である弁護士報酬相当額の損害賠償請求権は、別件訴訟において訴求している債権とはいずれも違法仮処分に基づく損害賠償請求権という一個の債権の一部を構成するものではあるが、単に数量的な一部ではなく、実質的な発生事由を異にする別種の損害というべきものである。
そして、他に、本件において、右弁護士報酬相当額の損害賠償請求権を自働債権とする相殺の主張が訴訟上の権利の濫用に当たるなど特段の事情も存しないから、右相殺の抗弁を主張することは許されるものと解するのが相当である。
そうすると、重複起訴の禁止の趣旨に反するものとして上告人の右相殺の抗弁を排斥した原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、その違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。右相殺の抗弁について審理不尽の違法があるとする論旨は、前提として右の趣旨をいうものと解されるから理由があり、原判決中、上告人敗訴の部分は破棄を免れない。そして、本件については、右相殺の抗弁の成否について更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すこととする。